「命」と「人権」が大切だと江川紹子さんがいう。
日本でも、冤罪で獄中にある人、親から虐待される子ども、職を失い食べるものにも事欠き、寒空の下で野宿をしなければならない人たちがいて、その命と人権が大事です。
そのほか、世界にも日本の中にも、私が知らずにいる、命や人権に関わる問題がどれほどあるでしょう。
でも、私ができるのはほんのわずかで、全ての問題には到底関われません。
だからこそ、自分が関われていない問題に貢献している他者に敬意を持ち、情報を交換し、励まし合っていきたい、と思います。 (引用:note「命と人権を思う」江川紹子氏
なぜか「自由」という言葉を連想した。このnoteの後半部分を読んで感じたことなのかもしれない。
「自由」という言葉には「責務」が伴う。そして、「自由」を思う存分謳歌するためには「モラル」が求められる。
「モラル」という言葉を調べてみると、「倫理」、「道徳」、「習俗」。また、生き方に対する真剣な反省との意味があるという。
そんな言葉たちが薄らいだ世になっているような気がする。人はどのように「モラル」を学んでいるのだろうか。
アップルのティムクックCEOが「アルゴリズムによって虚偽情報や陰謀論の拡散が助長されている今、できる限り多くのデータを収集する狙いであらゆるエンゲージメントを良しとする理論に、もはや目をつぶることはできない」と述べたとロイターが伝える。
テクノロジーが悪用され、公序良俗に反する行為が平然と行われる社会。由々しきこと、それを見過ごすことはできないのではなかろうか。
テクノロジーではもう解決できないのだろうか。ロイターの記事を読むとそんなことを感じてしまう。テクノロジーで越えることのできない壁なのであろうか。
「公序良俗」とは、公の秩序と善良な風俗のこと。社会的な妥当性が認められる道徳観。すべての法の基本理念で、法解釈やその適用のときの基準の一つとある。「公序」は人々が守るべき社会の秩序などの意味もあるといい、日本では、民法90条で、これに反する内容の法律行為は無効とされる旨を規定しているという。
道徳というと何か堅苦しく胡散臭さがあったりするのだろうか。ひとつの道徳があれば、また違った道徳があるのかもしれない。米国で起きた分断社会のニュースを見ると、そんな気がする。
倫理といえば、もう少し普遍性があるのだろうか。英語で言えば、エシカル。意識高い系に勘違いされてしまいそうだ。
もっと根底に人が守られなければならない普遍的な概念がありそうだ。
人を傷つけてはいけないとか、盗みは駄目であるとか、嘘はよくないとか。
そうした根っこにあるところまで、揺らぎ始めているのだろうかと感じるときがある。
クックCEOは名指しは避けながらも、SNSの慣行を批判したという。
「こうした姿勢が、分断、信頼失墜、そして暴力という代償を伴わないふりをするのはやめるべきだ」。
ロイターによれば、クック氏の発言を受けて、フェイスブックは声明を出し「アップルは『アップストア』支配を利用して反競争的行為を行い、アプリ開発者や中小企業を犠牲に自社の業績に恩恵をもたらしている」と批判したという。
批判の向きが違うような気がする。批判合戦になっては本末転倒だ。
考えてみれば、ネット社会の「モラル」とは何なのであろうか。そろそろ普遍性のあるネット上の「公序良俗」が必要になっているのかもしれない。
便利さばかりを追求するのがテクノロジーやビジネスの目的ではなかろう。こうしたことを学ぶ機会を提供することも必要なことではなかろうか。