自民党内に「国力研究会」という勉強会が結成された。高市首相を全面的に支えるため、首相が掲げる基本理念である「積極財政」や「危機管理投資」を理論的に後押しする勉強会としての性質を持つという。
非主流派参加、目的曖昧に 「大政翼賛会」批判も―自民国力研:時事ドットコム
経済安全保障の名の下に国家が財政を出動させ、国内産業を守り育てるという大義名分は、一見すると市場の過酷な淘汰から日本企業を救い出す正当な防衛策のようにも見える。外資ファンドが市場で推し進めるトリアージ(選別)に危機を感じるレガシー勢力にとっては、この動きは、既存の産業構造や既得権益を守るための「最強の盾」として映るはずだ。
しかし、この内向きの「最強の盾」の誕生は、外側で起きている地政学的摩擦と連動してはいないだろうか。
「誠意なし」中国外務省、日中対話を拒絶 小泉防衛相発言に反発 | 毎日新聞
首相による発言によってぎくしゃくした日中関係が、防衛相の発言でさらに深刻さを増す。メディアもこの危うい言説を無批判に増幅させ、あるいは乗せられる形で「日中対立」というわかりやすい二項対立のナラティブを拡大再生産させていく。
なぜ政権は、あえて外向きの摩擦を放置し、「敵」を設定するような動きを見せるのか。総主流派(大政翼賛会的)な組織構造を持つ国力研究会が「積極財政」や「危機管理投資」を通じて目指すものは、本当に国家の純粋な強化なのだろうか。それとも、外なる危機を意図的に煽ることで内向きの結束を固める意図はないのだろうか。
中国の合理性:ルールを利用した世界市場の制圧
「民主 vs 独裁」あるいは「日本 vs 中国」という歪んだ二項対立のフィルターを外したとき、隣国が展開する産業戦略の、冷徹なまでの市場合理性が浮かび上がる。中国が世界のトレンドを掴み、圧倒的なスピードで市場を席捲している理由は、政治体制が独裁だからという以上に、「世界の10年後のスタンダードを見据え、そこに今すべてのリソース(人・モノ・金)を、痛みを恐れずに集中投下する」という、資本主義のゲームにおける最も純粋な勝利の方程式を国家レベルで実行しているからに他ならない。
中国政府の産業政策は一見、中央集権的な計画経済のように見えるが、その実態は極めて弱肉強食である。例えばEVや太陽光の分野では、政府の莫大な補助金を背景に数千社を国内市場であえて激突させ、生き残った数社(BYDやCATLなど)だけを「国家代表」として世界のグローバル市場へ送り出す。その過程で潰れた何千もの企業や失業者は冷徹に切り捨てられる。この「国家規模のウェルチ改革」を常時行っているのが、彼らの歪みなきスピードの源泉だ。
これを可能にした最大の背景には、守るべき過去の巨大なインフラや複雑な利権構造が存在しなかったという「リープフロッグ(一足飛びの進化)」の構造的優位がある。さらに彼らは、欧米が「気候変動対策(ESG投資や脱炭素)」というグローバルスタンダード(ルール)を作った瞬間、それを道徳ではなく最大のビジネスチャンスと捉えた。
欧米が作ったルールに従うポーズを完璧に取りながら、裏では圧倒的な低コストのサプライチェーンを構築し、結果として欧米や東南アジアのエネルギーインフラの生殺与奪の権を丸ごと握るという厳然たる事実がある。世界のトレンドをがっちりとおさえ、顧客の要望に実利で応えているのはさてどちらなのだろう。
日本の構造:内向きの国力論、総主流派の合議制
この外側の圧倒的なリアリズムとスピードを前にしたとき、「国力」を掲げる日本の産業政策の足元はどうなっているだろうか。
「国力研究会」が高市政権をバックアップし、内向きのイデオロギー的な城壁を高く積み上げ、「日本を守る」という大義名分を掲げれば掲げるほど、皮肉にもその影で、国内の政策が総花的で、何ひとつ損切りできないままレガシーの呪縛を引きずっていく。
中国が痛みを恐れずにリソースを集中投下し、国家規模の淘汰(トリアージ)を平然と行っているのに対し、日本の総主流派(大政翼賛会的)な政治構造は、既存のサプライチェーンや伝統的企業、それに紐づく雇用や利権のすべてに配慮せざるを得ない。結果として、「国力」や「危機管理投資」という耳ざわりの良い言葉の裏で、古い技術や変化を拒む構造を無理に延命させるための「総花的な予算のばら撒き」が繰り返される。
これでは、外資ファンドなどの市場の圧力(淘汰のルール)から目を背けるための「ぬるま湯の防壁」を国策の名で再生産しているにすぎない。私たちは、政権自らが煽る「二項対立」というイデオロギーの温室に安住するあまり、自分たちが置かれている国際社会の現在地を冷静に知る機会を、自ら失ってはいないだろうか。
まとめ
外側では、過去の遺産を持たない怪物が「市場経済の規律とスピード」に最も忠実に従い、世界のエネルギーインフラの生殺与奪の権を握りつつある。それに対して日本は、政権自らが二項対立を煽ることで内向きのイデオロギー的な城壁(大政翼賛会的な温室)を作り出し、その影で総花的な過去の遺産を「国力」と言い換えて延命することに汲々としている。
私たちが本当に直視すべき「現在地」とは、一体どこにあるのだろうか。
単に敵を設定して内向きの結束を固め、古い城壁を高く積み上げるだけの「国力」論は、グローバルなルールハックの荒波を前に、どこまで有効なのだろうか。世界のトレンドから乖離したその場所で、私たちが競争優位性を大いに発揮することなど、果たしてあるのだろうか。
変化の作法を忘れ、レガシーの呪縛を国策で保護し続けた国がどのような未来を迎えるのか、その答えは、城壁の内側で思考を停止させられた私たち自身の眼前に、静かに突きつけられている。

