投資の神様 ウォーレン・バフェット率いるバークシャー・ハサウェイによる日本の五大商社への投資の成功は、グローバルな投資マネーの視線を180度変え、これまで見過ごされていた日本市場を「お宝探しの場」へと変貌させる巨大な引き金(バフェット・エフェクト)となった。
タイミングを同じくして、東京証券取引所が上場企業に対して「PBR(株価純資産倍率)1倍割れの解消」を強く迫るコーポレートガバナンス改革を断行したことも重なり、世界は「日本企業はついに変わる」という確信を抱くに至った。
しかし、この波及は日本の産業界にとって、手放しで喜べるものばかりではない。
海外投資家たちが流入したことで、日本の製造業は「商社と同等以上の資本効率(稼ぐ力と株主還元)を証明せよ」という、かつてない厳しいプレッシャーに晒されることになったからだ。バフェットの冷徹な投資ロジックを補助線に置いたとき、浮かび上がるのは日本経済の復活などではなく、「商社の知性」と「製造業の停滞」という、同じ日本株の中に潜む残酷な二面性である。
商社の知性、依存から抜け出せない製造業の弱点
バフェットが五大商社へ惚れ込んだ理由は、日本独自の「政商的なつながり」や政府とのコネクションそのものを狙ったものではない。
バフェット氏、総合商社株は「今後50年売らない」 ほれこむ理由は? - 日本経済新聞
総合商社はたしかに、AZEC(アジア・ゼロエミッション共同体)や資源外交において国策と一体となって動く「国策民営」の側面を強く持っている。しかしバフェットが評価したのは、その政府のバックアップと一体となった強固な物流・資源サプライチェーンという**「城壁(経済的モート)」であり、それと同時に、民間として自らリスクを負ってポートフォリオをダイナミックに入れ替え続ける「したたかな知性」**である。その資本効率への高い意識は、円建て社債を用いた為替リスクゼロのからくりまで使いこなし、他の日本企業を圧倒している点にも現れている。
これに対して、日本の伝統的な製造業や重工業の現在地はあまりにも対照的である。彼らはいまだに「国策の温室」という政商的色彩を強く残し、それを変革を拒むための**盾(言い訳)**として利用している。これが最大の弱点となりつつあることに気づかぬまま、「過去の技術や既得権益の保護」に拘泥し、未来の競争力を作るための本質的な投資(中身)を先送りする。その一方で、目先を繕うために手元の資本を差し出す歪んだ資本配分を続けるのだ。この変わらない悪癖を、自民党の小林政調会長は「カモネギ」と揶揄する。
商社をベンチマーク(基準)とする海外投資家から見れば、自ら価値を損ないながら葱を背負って歩いている格好の標的に映るのだ。
「物言う株主」と強制解体の序曲
バフェットがもたらした「光」の背後で、日本の製造業や重工業にはすでに冷酷な「影」が忍び寄っている。バフェット自身は経営陣をサポートする友好的(フレンドリー)な投資家だが、彼の投資成功(バフェット・エフェクト)を真似て日本市場へなだれ込んできた他の海外投資家たちの多くは、極めてアグレッシブな「物言う株主(アクティビスト)」である。
マクロ経済学者の齊藤誠氏は、その著書『競争の作法』において、市場競争と正面から向き合い、引き受けるべきリスクと真摯に対峙することの重要性を説いた。この「作法」という視点から現在の資本市場を眺めるとき、アクティビストたちが製造業の経営陣に向ける視線は、ルールへの不誠実さに対する断罪に近い。
彼らの要求は冷徹だ。「アンモニア混焼のような、回収の目途が立たない不透明なガラパゴス技術にダラダラと投資を続けるなら、経営陣を刷新せよ」「万年赤字の事業部や親子上場は即座に解消し、その資金を次世代クリーンテックなどの成長分野へ集中させよ」──。かつて東芝がアクティビストとの激しい攻防の末に上場廃止・解体へと追い込まれたように、いまや他の重工業や自動車部品、化学メーカーもその射程に捉えられている。
市場のルールから逃げ回り、国策という「温室」にこもって時間を稼ぎ、変化の手間を先送りし、目先を繕うために手元の資本を差し出す行為は、齊藤氏の言う「競争の作法」から最も遠い。そのツケは、外部の資本の力によって、最も残酷な形で「強制的な解体・再編」を迫られるという外圧のリスクとなって、いま確実に顕在化しつつあるようだ。
バフェットが外堀を埋め、世界が日本を動かす
バフェットの視線や東証のガバナンス改革が市場に強いた変化は、単なる株価の爆上げ、狂騒ではない。それは、戦後型のシステム、すなわち「変化を嫌う官民一体の護送船団」という形式の限界を、世界市場が白日の下に晒した結果にほかならない。
私たちがメディアの描く「現実的な移行」という耳ざわりの良い言葉に甘んじ、自らの「中身(色)」を点検することを怠っている間にも、世界の資本の力学は「作法」を欠いた「カモネギ」企業を冷徹に値踏みし、その肉を削ぎ落とそうとしている。小林氏の言葉は、単なる自虐のポーズではない。このまま形式の温守に逃げ続ければ、日本のモノづくりの土台、ひいては産業主権そのものが他者にハックされ、切り売りされるという最後の警告である。
いま求められているのは、内向きの防壁を高く積み上げることではない。自ら痛みを引き受けてポートフォリオを組み替える「商社の知性」、「競争の正しい作法」を、製造業の側が、そしてこの社会が今すぐ取り戻すことである。その覚悟を欠いたままでは、日本の産業に明ける未来はないのかもしれない。


