Into The FUTURE

未来はすべて次なる世代のためにある

奪われた気候変動への責任・当事者意識 ― 強い日本の陰で、なぜ私たちは無力になったのか

「気候変動に対して責任を感じる割合、日本は31カ国中で最下位の35%」。

先日発表されたこの調査結果は、多くの人に「日本人の意識はそこまで低いのか」という落胆を与えました。特に、個人が今すぐ行動しなければ次世代を裏切ることになる、という項目への同意がこの数年で激減した事実は深刻です。

気候変動に責任感じる割合、日本は35%で31カ国中最下位 民間調査 - 日本経済新聞

しかし、この数字を単なる「モラルの低下」と片付けていいのでしょうか。

実は、自国への影響を懸念している日本人は8割を超えています。不安は人一倍感じているのに、責任や行動に結びつかない。この奇妙な乖離の裏側には、日本人が怠慢だからではなく、むしろ政治や社会構造によって、個人が「自分の行動が未来を変える」という物語を奪われ、無力化されてきたプロセスがあるのではないでしょうか。

深層 ―― 政治の物語と個人の消滅

なぜ、不安を感じているのに「自分の責任だ」と思えないのでしょうか。その背景には、現在の政治が描く「強い日本」という巨大な物語が、図らずも個人の存在感を消し去っているという構造的な問題がありそうです。

高市政権(2026年時点)が掲げる「国力強化」や「経済安全保障」の主役は、常にマクロな存在です。次世代型原発や水素、そして防衛力の抜本的強化。これらはすべて、政府や大企業という「大きな力」が主導するプロジェクトです。

メディアが連日報じるのは、国家間のパワーゲームや巨額の予算投下ばかり。こうした「大きな物語」に圧倒される中で、私たちは無意識のうちにこう感じてはいないでしょうか。

「気候変動のような地球規模の難題は、国や科学技術が解決するべき『高度な政治問題』であり、自分たち一般市民がゴミを分別したり、再エネを選んだりする程度のことは、もはや誤差に過ぎない」と。

政治が「強いリーダーシップ」を強調すればするほど、個人の自己効力感(自分の行動で世界が変わるという実感)は反比例するように萎んでいく。かつての「国民運動」としての環境対策は、今や「産業政策」へと書き換えられ、私たちの手から当事者の椅子が取り上げられてしまったかのようにも見えます。

この「責任の政府への外注化」こそが、調査結果に現れた35%という数字の正体なのかもしれません。私たちが感じているのは怠慢ではなく、巨大なシステムの歯車に組み込まれたことによる「意思の窒息」ではないでしょうか。

転換 ― 本当の「強さ」とは何か。武器とエネルギー、自給の論理

気候学者の江守正多教授が投げかける問いに耳を傾けてみてもいいのではないでしょうか。江守氏は、気候変動対策を単なる「環境保護」の文脈から解き放ち、私たちの暮らしを地政学的なリスクから守るための「賢い選択」として再定義しています。

戦争とエネルギーと暮らしの関係──「賢い選択」としての再エネの未来を、気候科学者の江守教授に聞く | Vogue Japan

今、政府が語る「安全保障」の多くは、軍事力の強化や、海外からのエネルギー供給路(シーレーン)をいかに防衛するかという議論に終始しています。しかし、江守氏が指摘するように、莫大なコストを払って海外から化石燃料を買い続け、その不安定なルートを武器で守るという構造自体、実は非常に「脆弱」なものではないでしょうか。

本当の意味で「強い国」とは、他国の情勢や資源価格の変動に右往左往しない国のはずです。

  • 「依存」による強さ: 海外から燃料を買い、それを守るために武器を揃える(コストとリスクの二重苦)。

  • 「自律」による強さ: 自国の屋根や地域でエネルギーを自給し、外部への依存を構造的に断つ。

江守氏の視点は、気候変動対策が「我慢」でも「義務」でもなく、自分たちの主権を取り戻すための「戦略的な合理性」であることを教えてくれます。

「武器を持つこと」ばかりを強さと呼ぶ今の政治の物差しでは、この本質的な自立は見えてきません。私たちが気候変動に責任を感じられなくなっているのは、この「自分の暮らしを自分で守る(=再エネや省エネという武器を持つ)」という前向きな物語を、軍事一色の安全保障論に上書きされてしまったからではないでしょうか。

本質 ― 奪われた物語の回収。自分の行動を未来に繋ぎ直す】

日本人が「不安なのに動けない」のは、私たちが怠慢だからでも、科学的知見が足りないからでもありません。ただ、自分の小さな行動の先に「良くなる未来」が待っているという物語の連続性を、政治と社会の大きなうねりの中に埋没させられてしまっただけなのかもしれません。

今の社会では、気候変動は「2050年カーボンニュートラル」という、あまりに遠く巨大な、国家目標という名の「点」として提示されます。しかし、江守正多教授がVogueの対談などで強調しているのは、もっと手触りのある、個人の選択と未来の相関関係です。

「自分の屋根に太陽光パネルを載せる」「断熱性の高い住まいに整える」「再エネ企業を支援する」。これらは、「地政学的なリスクや、高騰する化石燃料の価格に自分の人生を左右させない」ための、極めて主体的な防衛策です。

私たちがは「国が変えてくれるのを待つ受動的な立場」から、「自分の暮らしのOSを自ら書き換える能動的な立場」への転換を進めるべきです。政治が「強い国」という抽象的な物語を語るなら、私たちは「強い個人、強いコミュニティ」という具体的な物語で対抗すればいい。

個人の行動が未来につながるという実感は、誰かに与えられるものではありません。国家という巨大な物差しとは別に、自分の暮らしを自分の手で整える「小さな物差し」を再定義したとき、初めてその物語は動き出すのです。35%という数字は、私たちが「部品」として扱われていることへの無意識の拒絶反応かもしれません。ならば、私たちは「主役」として、その物語を書き換え始める必要があるのです。

まとめ

「責任を感じる」という言葉は、時に重苦しく、誰かに背負わされる義務のように聞こえます。しかし、本来の「責任(Responsibility)」とは、状況に対して自ら「応答する能力(Response-ability)」を意味します。

私たちが31カ国中最下位という結果に甘んじているのは、私たちが無責任だからではありません。ただ、「自分たちの声や行動が、この国や未来を動かせるのだ」という主権者としての確信を、あまりに長く、深く、削り取られてきたからに過ぎないのでしょう。

政治が語る「強い日本」の物語の中に、もしあなたの居場所がないと感じるのなら、私たちは自分たちの手で新しい物語を紡ぎ始めるべきなのでしょう。それは、江守正多教授が説くような、科学的な知見に基づいた「賢い選択」を積み重ね、エネルギーや暮らしの主導権を自分たちの手に取り戻していくプロセスです。

気候変動への対策は、誰かの期待に応えるための「我慢」ではなく、私たちがこの不確実な時代を自由に、そしてしたたかに生き抜くための「権利」なのです。

国家という巨大な装置の部品として「不安」に震える日々は、もう終わりにしましょう。 「自分の行動が、確実に未来の形を変えていく」。 その手応えを取り戻したとき、35%という冷ややかな数字は、私たちが新しい時代の主役へとアップデートされたことを告げる、希望の指標へと変わるはずです。