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【SDGsの限界】米中の対立、両国に共通する価値観は作れないのか

 

 国連のオンラインイベントで米英独が、中国のウイグル問題を改めて批判し、「ジェノサイドやめよ」、「われわれは立ち上がって声を上げ続ける」と表明したという。

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 ロイターによれば、中国側の代表は「新疆については何も隠すことはないし、新疆は常に開かれている。われわれは誰もが新疆を訪れることを歓迎するが、嘘と推定に基づくあらゆる調査には反対する」と述べたそうだ。

 噛み合わない議論。一方は問題視し、他方は問題がないと主張する。同じようなことが中東での問題でもおきている。

 国連安保理で、輪番制議長国中国の王外相が問題解決に向けた努力を妨害しているとアメリカを非難し、公平な姿勢を取り、責任を果たすよう呼びかけという。

 どちらにも偏らないことが肝要なのだろうが、なかなかそうはいかない。

 

 

 人権問題では欧米から批判される中国だが、他方、欧米に先んじて行動するところも多々ある。アリババのような巨大企業に対していち早く独占禁止法を適用、自社通販サイトの出店企業に、競合サイトとの取引を認めない慣行を問題視し、約182億元(約3,050億円)という巨額な罰金を科した。また、事業の「完全なる是正」も求め、対応策の自主評価報告を3年間提出するよう命じたという。

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 自由に活動している国内巨大IT企業の頭を抑える取り組みを強化、反独禁法措置に続き、データ関連の規制に照準を定めているとロイターは指摘する。こうした企業が事業を普段通りに進めれば、政府からの監視はより厳しくなる恐れがあるという。強権的な姿勢なのかもしれないが、消費者の利益を優先しているともいえるのではなかろうか。 

 

 

 中国の姿勢が明らかに変わったのだろう。強かに緻密に計画し成長を続けた結果、その影響力の大きさを誰もが認めざるを得なくなった。態度や振る舞いに変化があって当然なのかもしれない。それが、また中国ということなのだろう。

 その中国には「中華思想」がある。

「夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かず」、孔子が記した論語の中に「中華(夏)思想」のもとになる言葉がある。

「夏は大なり」、「諸夏」とは中原にある文明のさかんな漢民族の国々を指し、その周辺にある野蛮な諸異民族と対立するという。文学者 桑原武夫は以下のように孔子の言葉を解説する。

孔子の教えの中心は文明の尊重にある。その文明の基本は礼楽の尊重とその実践にあるが、もともとリチュアル(儀式)とはそれぞれの種族の特殊な生活形態の核から生じるものであるから、他種族には感得、理解を絶する面をもっている。したがってこれにあまり執着して、「中華思想」におちいることは他種族との間の平和を乱す恐れもあるのだが、孔子はそうした国際政治までは考えなかったのだろう。

孔子としては礼楽を中心とした秩序ある国を中国に復活せしめたい、たとえいま魯の昭公が七年間も国外に亡命しなければならなかったというような、君亡き状態におちいっているにしても、あくまでも先王の道は不滅であり、自信を失ってはならない、と弟子およびみずからをはげましたのであろう。 (引用:論語 桑原武夫P64~65) 

論語 (ちくま文庫)

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  • 作者:桑原 武夫
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 一方、司馬遼太郎は「この国のかたち」で、 その概念の根本には、天命によって天から選ばれた天子を頂点とし、『礼は国の幹なり』(春秋左氏伝)というように、礼が人倫の秩序を守るための基本であると指摘する。  

 「韓のくに紀行」(街道をゆく2)では、「礼とはつまり形式のことで、この形式がいかに煩瑣(はんさ)であれ、これを命懸けでまもってこそ人間社会と社会が成立する」と指摘し、それは「自然のままの人間というものをみとめない。人間は秩序原理(礼)でもって飼い慣らしてはじめて人間になる」と述べ、この思想には「平等」という概念がないという。

街道をゆく 2 韓のくに紀行

街道をゆく 2 韓のくに紀行

 

 司馬の意見に少々極端さを感じたりもするが、それはそれで、今日の中国を言い当てているのかもしれない。

 中華人民共和国成立時、社会主義共和制と相容れない存在と捉えられた孔子を祖とし、礼楽を重視するその儒家思想は弾圧の対象となったが、その後21世紀になると、弾圧から保護の対象となり、積極的に学校授業にも取り入れ、再評価が進んだという(参考:Wikipedia)。

 

 

 古代、先進国であった中国を支えた思想が脈々と現代までに引き継がれていくことは何ら不思議なことでない。ただ、それが時代に合わせて変化しなければ、古代に立ち返ったかのような、司馬遼太郎が指摘する形式主義や、先のG7でも懸念が表明された権威主義に陥ることになるのだろう。多様な現代人の視点を取り入れていくのかが課題なのかもしれない。

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  江戸時代の前期の儒学者 伊藤 仁斎は、「孔子は諸夏の絶対優越には賛成せず、天地の心を心とし、中国とか夷狄とか生まれによって差別することがなかったのだ、諸夏と夷狄の別を厳重にしすぎるのは、孔子の本心に背く」と穏健な説を述べる(参考:論語 桑原武夫)。

 子曰わくで始まる「論語」も、後の時代の人たちによって注釈が加えられ、孔子本人の意思とは異なったものになっているのかもしれない。その言葉を固定化せず、自分たちだけに都合よくが解釈するのではなく、現代に合わせて解釈し直す作業が必要なのかもしれない。

 

 

 それぞれの国にそれぞれの歴史があり、それが背景となって思想も生まれるのだろう。

 アメリカ建国の父の一人であるベンジャミン・フランクリンは「自伝」で、「節制」や「規律」、「誠実」「正義」「中庸」などを自身の13の徳を説く。言葉の表現の違いはあるが、孔子の「論語」とも共通するところも多いのではなかろうか。

 2015年、SDGsが世界共通の目標として国連で採択された。イデオロギーに偏ることがなければ、共通の目標を作ることもできるのだろう。SDGsに従って、世界の国々が真に議論するのであれば、解決できない問題はなくなるのかもしれない。